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sekerto internacionalo

時代は過ぎ去らないと羨ましがられないような気がする

anond.hatelabo.jp

 

今の若い人にとってそんな思いもあるのかとちょっと驚いた。

わたしにとっての安保闘争世代がうらやましいとか、ウッドストックに行きたかったとかハイレッド・センターと同時代に生きたかったとか、そんなかなーとも思い。

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1995年といえば1月の阪神・淡路大震災から始まった。

震源地から遠く離れた関西の田舎に住んでいたわたしでさえも、あまりの揺れに飛び起き、本棚が倒れまいと手で支えていたことを思い出します。母も飛び起きて、もう心臓がばくばくして二度寝できないと、二度寝したわたしになぜか怒っていた。

多くの電車は朝から止まり、わたしも姉を会社へクルマで送ったりしていた。

授業も無いから家でテレビをつけると、朝から晩まで、連日連夜震災のことを中継していた。夕方のニュースでは燃えている神戸の街が中継され、友人の家があるエリアもリアルタイムで焼け野原になっていく様を見せられた。

街には、物資が足りないと親類縁者に水を配達する人や、公衆電話や自動販売機の小銭が盗りに行く人もいたりした。

「大阪は助けにこない、他人事や」

と憤る神戸の人も多かったように記憶する。事実、大阪から神戸に火事場泥棒に行こうと算段している人もいた。

 

そんな中、3月にオウムの事件が起こり、報道が一変した。

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それまで震災一色だった報道が、連日連夜オウム事件のことを報道することになった。

「毒マスクとカナリア」「第六サティアン」「弁護士一家殺害事件」

どれもセンセーショナルで国民はブラウン管に釘付けになっていた。

 

オウムの知名度はすでにあった。事件に遡ること10年ぐらい前だろうか、わたしの住んでいた町にも数ヶ月に1回、麻原彰晃の講演会が駅前の貸し会議室で開かれており、その時は告知のチラシが入っていた。

インドだったかどこそこで修行を積んだ麻原師の講演的なもので、小さかったわたしは、「へーそんな人もいるんだ」ぐらいに思っていたが、多くの大人はそのうさんくささに相手にしていなかったように思える。

数年が経ち、オウム真理教としての麻原を見た時に、大きくなったものだなーと、昔、応援していた歌手が売れたみたいな妙な感慨を持った。

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しばらくして芸大生時代の話。

春の新入生歓迎のサークル勧誘時期にだけ活動をアピールする「氣功サークル」「ヨガサークル」的なものがあった。今、思えばこれがオウムの勧誘団体だった。

何をしているかは分からないが、学祭の時にだけ「カレー」を売っていて、カレーを年に1回売っているサークルぐらいの認識だった。

日本橋のビルの3FあたりにマハーポーシャというオウムのPC(当時はDOS/Vと呼んでいた)ショップがあった。スクリーンセーバーでは尊師が雲にのってふわふわしていたように思える。

そんな学生時代に「阪神・淡路大震災」が起こり、大学どころじゃない学生も出てきたし、わたしが貸した本も先輩の潰れたマンションの下敷きになったりした。

そんな時代だった。

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ところで、わたしにはMくんという真面目な同級生がいた。
彼は震災直後に、オウムの勧誘お姉さんにファミレスで説明を受けた後、

「大学を辞めて、オウムに出家信者になる」と言い出した。

友達はみんな止めたが、彼は大学に価値は見いだせなかったのか、オウムに出家してしまい、大学も自主退学した。

 

その1ヵ月後に「地下鉄サリン事件」が起こった。

 

テレビの報道で「第六サティアン」に警察が突入し、仏像やら変な造作物が映し出された。キャスターが言うには「芸術系大学を出た信者が作っていた」と言っていたので、我々の間では「第六サティアンはMくんが作っていた」のではないかと噂になっていた。

オウムのお姉さんにもコンタクトを試みた友人もいたが、事件の後、全く連絡がつかなくなった。もうそれどころではなかったのだろう。

 

数ヶ月経っても、あいかわらずテレビはオウムのことばかり報道していた。

わたしも授業が再開し、日常がもどってきた感じもあったけど、なんか居心地が悪い感じが覚えがながら暮らしていた。そんな年だった。

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ところで、ある尊敬する人の話で、

「母が言うには、明治維新なんてものはなかった」というものがあります。

 

その時代を生きていた人にとって、後世で語り継がれるものに自分たちがいるということにはなかなか気が付きにくいようで、いろいろと趣深い言葉だと思っています。

 

 

こんな閉塞感のある2000年代ですら、後に羨ましがられたり、語り継がれることがきっとあるんだろうなー。